地域中心時代、釜・蔚・慶(釜山・蔚山・慶尚南道)企業を応援する!
オーシャンエンテック
“Hell-Seoul”を跳ね返し、海の街である釜山に…船舶機材・資材輸出の夢を実現
ー宋海花代表、高校卒業後に日本へ留学
ー民泊生活もしながらバイト・勉強を両立
ーソウルで就職
ー釜山に戻り、船舶会社で新たな挑戦
ー英語の勉強のためロンドンへ留学
ー帰国後3年間、造船業の経験を積む
ー造船業界を中心とした商社であるオーシャンエンテック社を設立
ー2019年「300万ドル輸出塔」も

宋海花(右から4番目)代表が、初品検査の為に訪韓した日本企業の関係者たちに製品及び工場の説明をしている。
■”Hell-Seoul”を予感し創業
(株)オーシャンエンテック宋海花(54)代表。韓国貿易協会ー釜山専門貿易商社会の事務総長を勤めている。筆者は、ロールモデルになる女性起業家を探し、来たる女性時代の光を見つけるべく、数多くの人に聞いて回った。
しかしながら、宋氏にインタビューを依頼したところ、すっぱりと断られてしまった。ワイングラスを傾けながら趣旨を説明してもすぐには受けてもらえず、結局2か月をかけて承諾をいただいた。
ようやく同意を得てインタビューを始めたところ、50代とは思えないような若さと勢いを感じる女性であった。素晴らしい人に取材できる!と感じた。
青春・女性時代の読者皆様はぜひご注目いただきたい。
慶尚南道の金海で生まれ、学校は釜山で通った。中学校の頃、父の事業が倒産し、裕福な幼い時代とはうって変わった。卒業後、就職のために専門学校に進学した。
専門学校の卒業後、大学への進学も考えたが、正直に言うと進学できる成績ではなかった。
そこで、留学を考えた。アメリカには面倒を見てもらえる親戚がいたが、ただ近いからという理由であえて何の身寄りもない日本を選んだ。両親に会いたくなった時、戻りやすいからという理由だった。
日本語学校に6ヶ月間通い、留学試験を受けた。当時、私費留学であっても、国家試験に受からなければ出国ができなかった。幸いにも合格し、東京で1年課程の外国語専門学校ー日本語学科に登録した。
先払い条件の授業代を払ってから、わずか20万円だけを持ち、生まれて初めて飛行機に乗って日本に向かった。小さな民泊の一日の料金は3000円。下手をすればすぐ野宿になるありさまだ。心を決めて敷金と何か月かの家賃を先払いしたところ、すぐに飢える羽目になった。歩き回って、なんとかして時給600円のコーヒーショップのバイトを始められることとなった。
体重が30kg台に近づくほどの多忙さであった。外国語学校を卒業した後、日本の2年制旅行専門学校に入学した。旅行関係であれば、職場を見つけられる気がしたからだ。
旅行専門学校に入学後も、相変わらず授業とバイトを平行していた。卒業後、実家が恋しくなり、帰国してソウルで職場を探した。国内の財閥企業、外資系企業などに合格した。
給料を計算したら釜山よりはソウルの方が少しだけ高かったが、生活費などを考えるとソウルで就職するのは灰色の未来が見えた。日本でもHellに暮らしたのに、ソウルにいってもHellなのか?
当時の時点で”Hell-Seoul”に気が付いていた海花さん、流石の一言である。
■釜山で海を後ろ盾にして創業。

遅咲きのバイオリン演奏は暮らしの活力だ。右から2番目が宋海花代表。
人たちは喉から手が出るほど望むソウルの職場を投げ出して、釜山に戻った海花さん。生きていく為に一応日本語講師と通訳・翻訳の仕事をしているうちに恋に出会った。
青春なのに、恋に迷っている余裕はない!と、1993年中学校の教師であった現在の夫と、結婚した。
祝福のお祝いか、1994年6月(株)総合海事技術に入社する。まず、ソウルでの面接で指摘された「声が大きい」や「慶尚道の方言が強い」などの問題はお互い様で、心地好かった。
この会社は船舶機器を製造、輸出する会社だった。営業部に配属されたが、船舶、それに各種機器が理解しておかなければならない。勉強するのみだ、と作業服を着て先輩たちを追って現場を回った。
入社の翌年、目に入れても痛くない娘を出産した。故郷だから、母親に育児の世話をしてもらいながら、職場生活を続けた。専攻を活かして日本の起業を主に担当しながら、ヨーロッパ企業の営業も担当した。6年間、勤務し退職。6年間、ずっと英語の勉強をしてきたが、なかなか上手になれかかった。いっそのこと、本場に学んでみよう!
2001年1月、イギリスに飛んでロンドンサウステムズ大学1年語学研修過程に進む。
生まれて初めてバイトをしないで勉強だけをした幸せな日々だった。
8月に夏休み中の夫と娘がロンドンに来たが、あった途端ホームシックになりかけた。1年後、英語に自信を持てるようになり、帰国しようと思ったが、以前の会社で勤務しながらメールと電話で親しくなったオランダ会社の日本人の友人がアムステルダム現地での就職を勧めた。
それがきっかけとなり、アムステルダムで働くようになったが、ホームシックになってしまい、7か月後に帰国した。すでに起業への志を抱いていた海花さん、船舶関連企業3か所で2年半勤務しながらしっかりと準備をし、2004年2月、ついにオーシャンエンテックを設立する。
■現実への正直な、堂々な対面。

創業から18年間で受賞した3つ「輸出の塔」
前もって計画を立てながら生きていく人生なんてどのくらいあるだろうか。計画を立てたとしても、そのまま進められる人生はどのくらいあるだろうか。特別な能力があり、決めた道に入ったとしても、いきなり襲ってくる伏兵によって絶壁に押されることもある。だからこそ人生は出会う瞬間の選択と決定の連続であるもの。
中学生の時に経験した父の倒産は衝撃的な出来事だったはずだ。当時の困難の中で彼女が選択したのは、専門学校への進学であった。卒業後の留学は現実逃避だったのか、一時の心変わりだったのか。
専門学校卒業後の給料では見込みがなかったからであろう。だから、のちの人生の跳躍のための決心だと考えるべきところだろう。彼女の人生の中で一番正しかった判断と決定は何だったか。あの頃、すでに”Hell Seoul”を見切った明瞭な目ではないか。
家族の一員として釜山に戻らざるを得なかったわけではなく、自らの責任に基づいて決定したことだったのだろう。未練や後悔はなかったんだろうか。真実はわからないが、想像しうるものでもある。
インタビューを受けてもらうための説得のため、何回か顔を合わせるうちに、首をかしげたところがある。周りの噂で聞いた経済的余裕とは裏腹に、ブランド品や派手なアクセサリーは見えなかった。
そっと遠回りに聞いてみたところ、デザインや色が気にいれば、高い服やアクセサリーも時々購入すると言っていた。ただ、人の目を意識してブランドや宝石などの名にこだわらないだけ。どこかで見た覚えがあるような堂々たる言葉だ。今までの人生での未練や後悔に基づく、現実での見栄や見せびらかしのようなものは全く感じられなかった。
筆者は、いわゆる伝統の名門家と呼ばれる家柄の人をよく知っている。それは、職を過ちなく退き、充実した日々を送りつつ品位を維持するような、富に溢れているわけではないがノブレス·オブリージュを実践し、亀鑑(尊敬される人)になるような方々のことだ。
もちろん、まだ若い海花さんには過ぎた比喩だと思う。しかし、堂々と現実を見つめ、泡のような名声にこだわらない彼女の選択は、この頃「地域」を「地方」と考え、焦る人たちに選択肢を与えられると思い、少し大げさに記した。
さて、話は戻るが、2月に会社を立ち上げた海花さん、3月に初の輸出代行注文が入った。船舶用特殊ウレタン輪などで、金額は115万5000円。小さなスタートだったが、すごく心配していたからか、注文にはときめいたものだ。今もその金額を覚えているらしい。
海の街、釜山で、海を走り掛ける船舶の部品で始めたオーシャンエンテックは船舶関連で2度「100万ドル輸出の塔」に続き、2019年は「300万ドル輸出の塔」も1度受賞した。人生、「運七気三」(運が7割、気勢が3割ということわざ)といったか。あえて運を探せば名前の中に「海」があり、それは海の街で生きていたからこその運だろうか。もしかしたら運命かもしれない。いずれにせよ釜山だったからこそ可能な話だろう。
キム・ゾンヒョン客員論説委員/作家
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地域中心時代、釜・蔚・慶(釜山・蔚山・慶尚南道)企業を応援する!
オーシャンエンテック
“Hell-Seoul”を跳ね返し、海の街である釜山に…船舶機材・資材輸出の夢を実現
ー宋海花代表、高校卒業後に日本へ留学
ー民泊生活もしながらバイト・勉強を両立
ーソウルで就職
ー釜山に戻り、船舶会社で新たな挑戦
ー英語の勉強のためロンドンへ留学
ー帰国後3年間、造船業の経験を積む
ー造船業界を中心とした商社であるオーシャンエンテック社を設立
ー2019年「300万ドル輸出塔」も
宋海花(右から4番目)代表が、初品検査の為に訪韓した日本企業の関係者たちに製品及び工場の説明をしている。
■”Hell-Seoul”を予感し創業
(株)オーシャンエンテック宋海花(54)代表。韓国貿易協会ー釜山専門貿易商社会の事務総長を勤めている。筆者は、ロールモデルになる女性起業家を探し、来たる女性時代の光を見つけるべく、数多くの人に聞いて回った。
しかしながら、宋氏にインタビューを依頼したところ、すっぱりと断られてしまった。ワイングラスを傾けながら趣旨を説明してもすぐには受けてもらえず、結局2か月をかけて承諾をいただいた。
ようやく同意を得てインタビューを始めたところ、50代とは思えないような若さと勢いを感じる女性であった。素晴らしい人に取材できる!と感じた。
青春・女性時代の読者皆様はぜひご注目いただきたい。
慶尚南道の金海で生まれ、学校は釜山で通った。中学校の頃、父の事業が倒産し、裕福な幼い時代とはうって変わった。卒業後、就職のために専門学校に進学した。
専門学校の卒業後、大学への進学も考えたが、正直に言うと進学できる成績ではなかった。
そこで、留学を考えた。アメリカには面倒を見てもらえる親戚がいたが、ただ近いからという理由であえて何の身寄りもない日本を選んだ。両親に会いたくなった時、戻りやすいからという理由だった。
日本語学校に6ヶ月間通い、留学試験を受けた。当時、私費留学であっても、国家試験に受からなければ出国ができなかった。幸いにも合格し、東京で1年課程の外国語専門学校ー日本語学科に登録した。
先払い条件の授業代を払ってから、わずか20万円だけを持ち、生まれて初めて飛行機に乗って日本に向かった。小さな民泊の一日の料金は3000円。下手をすればすぐ野宿になるありさまだ。心を決めて敷金と何か月かの家賃を先払いしたところ、すぐに飢える羽目になった。歩き回って、なんとかして時給600円のコーヒーショップのバイトを始められることとなった。
体重が30kg台に近づくほどの多忙さであった。外国語学校を卒業した後、日本の2年制旅行専門学校に入学した。旅行関係であれば、職場を見つけられる気がしたからだ。
旅行専門学校に入学後も、相変わらず授業とバイトを平行していた。卒業後、実家が恋しくなり、帰国してソウルで職場を探した。国内の財閥企業、外資系企業などに合格した。
給料を計算したら釜山よりはソウルの方が少しだけ高かったが、生活費などを考えるとソウルで就職するのは灰色の未来が見えた。日本でもHellに暮らしたのに、ソウルにいってもHellなのか?
当時の時点で”Hell-Seoul”に気が付いていた海花さん、流石の一言である。
■釜山で海を後ろ盾にして創業。
遅咲きのバイオリン演奏は暮らしの活力だ。右から2番目が宋海花代表。
人たちは喉から手が出るほど望むソウルの職場を投げ出して、釜山に戻った海花さん。生きていく為に一応日本語講師と通訳・翻訳の仕事をしているうちに恋に出会った。
青春なのに、恋に迷っている余裕はない!と、1993年中学校の教師であった現在の夫と、結婚した。
祝福のお祝いか、1994年6月(株)総合海事技術に入社する。まず、ソウルでの面接で指摘された「声が大きい」や「慶尚道の方言が強い」などの問題はお互い様で、心地好かった。
この会社は船舶機器を製造、輸出する会社だった。営業部に配属されたが、船舶、それに各種機器が理解しておかなければならない。勉強するのみだ、と作業服を着て先輩たちを追って現場を回った。
入社の翌年、目に入れても痛くない娘を出産した。故郷だから、母親に育児の世話をしてもらいながら、職場生活を続けた。専攻を活かして日本の起業を主に担当しながら、ヨーロッパ企業の営業も担当した。6年間、勤務し退職。6年間、ずっと英語の勉強をしてきたが、なかなか上手になれかかった。いっそのこと、本場に学んでみよう!
2001年1月、イギリスに飛んでロンドンサウステムズ大学1年語学研修過程に進む。
生まれて初めてバイトをしないで勉強だけをした幸せな日々だった。
8月に夏休み中の夫と娘がロンドンに来たが、あった途端ホームシックになりかけた。1年後、英語に自信を持てるようになり、帰国しようと思ったが、以前の会社で勤務しながらメールと電話で親しくなったオランダ会社の日本人の友人がアムステルダム現地での就職を勧めた。
それがきっかけとなり、アムステルダムで働くようになったが、ホームシックになってしまい、7か月後に帰国した。すでに起業への志を抱いていた海花さん、船舶関連企業3か所で2年半勤務しながらしっかりと準備をし、2004年2月、ついにオーシャンエンテックを設立する。
■現実への正直な、堂々な対面。
創業から18年間で受賞した3つ「輸出の塔」
前もって計画を立てながら生きていく人生なんてどのくらいあるだろうか。計画を立てたとしても、そのまま進められる人生はどのくらいあるだろうか。特別な能力があり、決めた道に入ったとしても、いきなり襲ってくる伏兵によって絶壁に押されることもある。だからこそ人生は出会う瞬間の選択と決定の連続であるもの。
中学生の時に経験した父の倒産は衝撃的な出来事だったはずだ。当時の困難の中で彼女が選択したのは、専門学校への進学であった。卒業後の留学は現実逃避だったのか、一時の心変わりだったのか。
専門学校卒業後の給料では見込みがなかったからであろう。だから、のちの人生の跳躍のための決心だと考えるべきところだろう。彼女の人生の中で一番正しかった判断と決定は何だったか。あの頃、すでに”Hell Seoul”を見切った明瞭な目ではないか。
家族の一員として釜山に戻らざるを得なかったわけではなく、自らの責任に基づいて決定したことだったのだろう。未練や後悔はなかったんだろうか。真実はわからないが、想像しうるものでもある。
インタビューを受けてもらうための説得のため、何回か顔を合わせるうちに、首をかしげたところがある。周りの噂で聞いた経済的余裕とは裏腹に、ブランド品や派手なアクセサリーは見えなかった。
そっと遠回りに聞いてみたところ、デザインや色が気にいれば、高い服やアクセサリーも時々購入すると言っていた。ただ、人の目を意識してブランドや宝石などの名にこだわらないだけ。どこかで見た覚えがあるような堂々たる言葉だ。今までの人生での未練や後悔に基づく、現実での見栄や見せびらかしのようなものは全く感じられなかった。
筆者は、いわゆる伝統の名門家と呼ばれる家柄の人をよく知っている。それは、職を過ちなく退き、充実した日々を送りつつ品位を維持するような、富に溢れているわけではないがノブレス·オブリージュを実践し、亀鑑(尊敬される人)になるような方々のことだ。
もちろん、まだ若い海花さんには過ぎた比喩だと思う。しかし、堂々と現実を見つめ、泡のような名声にこだわらない彼女の選択は、この頃「地域」を「地方」と考え、焦る人たちに選択肢を与えられると思い、少し大げさに記した。
さて、話は戻るが、2月に会社を立ち上げた海花さん、3月に初の輸出代行注文が入った。船舶用特殊ウレタン輪などで、金額は115万5000円。小さなスタートだったが、すごく心配していたからか、注文にはときめいたものだ。今もその金額を覚えているらしい。
海の街、釜山で、海を走り掛ける船舶の部品で始めたオーシャンエンテックは船舶関連で2度「100万ドル輸出の塔」に続き、2019年は「300万ドル輸出の塔」も1度受賞した。人生、「運七気三」(運が7割、気勢が3割ということわざ)といったか。あえて運を探せば名前の中に「海」があり、それは海の街で生きていたからこその運だろうか。もしかしたら運命かもしれない。いずれにせよ釜山だったからこそ可能な話だろう。
キム・ゾンヒョン客員論説委員/作家
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